週刊ビル経営・今週の注目記事

毎週月曜日更新

野口ビル企画 昭和2年築の蔵をレンタルスペースに

2019.08.19 14:57

口コミ広がり展示会からミニライブまで開催
 築92年の蔵が、レンタルスペースとして活用され注目を集めている。関東大震災後に建てられ、戦禍をくぐりぬけてきた物件。その歴史と活用の経緯について聞いた。
見学も受け入れ 建物のファン多く
 神保町に蔵を活用したレンタルスペースがある。
 その名称は「アート・スペース蔵」。昭和2年(1927年)築、竣工から92年になる物件だ。東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄「神保町」駅から徒歩1分という場所に立地する。
 2017年より運営を開始した「アート・スペース蔵」。もともとは蔵として独立した建物であったが、「第1野口ビル」の建設時にビル内に蔵を収める形とした。そのため、建物のなかに蔵があるという珍しいつくりとなっている。
 レンタルスペースの運営を行うのは野口ビル企画(東京都千代田区)取締役会長の野口直子氏。「宣伝はまだまだですが、口コミでの広がりなどから多くの方に利用して頂いています」と話す。アート作品の展示から、ミニライブ、ワークショップなど、利用方法は多岐に及ぶ。現存する本物の蔵であることもポイントのようで「見学でいらっしゃる方も多い」。見学に来て、ファンになってもらい実際の利用につながったこともあるようだ。
 蔵は地上3階地下1階。ただレンタルスペースとして開業する際に3階の一部を残して撤去し、天井高の高い2階の空間ができあがった。圧迫感なく利用できるとともに、音環境もいいことから「歌手の方がミニライブで利用されることも」あるほど。 関東大震災後に建築 戦禍を免れた慧眼
 口コミ、あるいは蔵への見学で客層を広げる「アート・スペース蔵」。築92年の歴史的建造物はどのような足跡を辿ってきたのだろうか。
 この蔵は大正12年(1923年)に発生した関東大震災後の「復興建築」として、当時古物商を営んでいた祖父・野口武兵衛によって新築された。震災後ということもあって「復興建築」では鉄筋コンクリートで建築されることが推奨。蔵も鉄筋コンクリート造となった。
 太平洋戦争中には同地でも東京大空襲などの戦禍に見舞われることになる。東京大空襲の際には一帯も焼け野原となった。野口氏によると「水道橋方面から火が出たようで、それが神保町まで燃え広がってきました」という。蔵も焼失の危機に見舞われたが、鉄筋コンクリートであることに加えて、耐火窓を使用していた。商売柄、品物を保管する場所なだけに細心の注意を払っていたようだ。それが功を奏して難を避けることができた。
 戦禍を逃れたエピソードには祖父の先見性が垣間見えるエピソードもある。
 「祖父は花や植物に関心が強く、蔵の屋上に庭園を作っていました。戦時中、大空襲以外にも焼い弾が落とされるなど、幾度となく焼失の危機に見舞われました。しかし屋上に庭園や土があったことで、焼い弾による難を逃れることができたようです」(野口氏)
 やがて直子氏の父の代となると、様々な事業を展開するに至った。貸ビル業は1967年の「第1野口ビル」竣工に端を発するが、それ以外にも神保町でのローラースケート場事業や埼玉県での保育園事業など多角化していたという。
 一方で長らく手つかずとなってしまっていた蔵。「全体が押し入れのような状態」になってしまっていたという。現在の所有者は野口直子氏となっているが、「いずれ相続するときにこのままでは申し訳ないと思いまして、まずは整理することから始めることにしました」という。
 レンタルスペースを行うに至ったきっかけは意外なところからだった。蔵を整理するとともに、補修・リニューアルを実施。その際に担当した職人が「ギャラリースペースとしても活用することができそうだ」と話す。このアイデアに野口氏も賛同し、現在の「アート・スペース蔵」の営業を行うこととなった。
 既に「第1野口ビル」も築52年。満室が続いているが、将来的には建て替えも選択肢となる。それでも野口氏は「蔵はいつまでも残していきたい」とも話す。レンタルスペースとして新たな命が吹き込まれた蔵は今後も需要を集めていきそうだ。




週刊不動産経営編集部  YouTube