不動産トピックス
日本橋特集 「日本橋ものがたり」
2020.03.02 11:48
今日の日本橋の繁栄の礎は、江戸時代に築かれた。その四百年にわたる歴史を振り返るにはあまりに紙面が足りないが、その一端を綴ってみたい。
1.家康は不動産目利きの達人
徳川家康(徳川幕府)なくして今日の国際都市、東京はない。東京なくして東京屈指の繁華街、日本橋もない。
家康は何故、江戸を徳川幕府の地としたのか。豊臣秀吉が「家康を恐れた結果」と言える。秀吉は家臣の大名の中から「五大老」、「三中老」、「五奉行」を選抜、重鎮体制を執った。が本音は五奉行の一人の石田光成を豊臣時代継続の中核人物と決めていた。その豊臣時代を危うくする人物とし、五大老に据えた家康を警戒していた。最高格の五大老としたのは「名誉という飴をしゃぶらせ、牙を研ぎ澄まさせたくなかった」ため。一方で今の東海地域に有していた家康の領地を関東に変え、大阪への距離を隔てさせた。家康が関東=江戸に拠点を構えざるを得なかったのは1590年。家康は江戸の地に1603年徳川幕府を開闢した。その後「大坂冬の陣/夏の陣」。徳川軍は勝利し、家康の江戸づくりは本格化した。
なぜ、家康は追いやられた江戸に幕府を設けたのか。真意を示す古文書の類はない。が諸説ある。
「家康の不動産投資の優れた着眼力が、江戸幕府の設立の礎となった」とする見方に共感する。具体的には…
★大都市が栄える地形条件
大都市の歴史を振り返ると、共通項が確認できる。「周囲に広大な土地がひろがっている」「海や大きな川に面している」。江戸から北には広大な関東平野。東京湾や最大級の利根川水域が存在した。
★陸路の拠点地
日本橋川に日本橋が架けられたのは江戸幕府開設と同じ1603年。家康は日本橋を五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の拠点と考えた。
★流通拠点
江戸湾を「ハブ」とした全国の海路流通網の確立が可能と考えた。陸路の流通体制では、時間コストが掛かりすぎる。海路網の整備なくして江戸の繁栄はない。
江戸時代の移動手段は足以外にはせいぜい「籠」「馬」。川が多かったため「船」が不可欠だった。江戸の民は船を愛用した。「猪牙舟(ちょきぶね/舳先が尖った舟)」、それより一回り小さい「百文舟(自ら掉さし操る舟)」など。海路の流通には「樽舟(酒樽を運ぶ)」「菱垣廻船(酒以外の物を運ぶ)」等。四方を海に囲まれた日本国では、相応の船舶技術が研磨されていた。
が、幕府開設時の江戸の地は一口で言えば「海流が入り込んだ地盤の弱い不毛な湿地帯」。家康はそんな土地でも上記の観点から「将来性の高い地」と確信し、いまの東京の中心部まであった海を埋め立てていった。家康は「先々を見据えた不動産投資の勘所」を心得ていたと言える。
日本橋の礎は、家康の積極的な地盤改革・土地造成でなされた。土木工事を行い並行し「町割(区画整理)」を実施。例えば今の日本橋本町エリアには「薬種商」を集めさせた。第一三共、武田薬品等の源流である。
2・賑わいは白木屋と越後屋から
江戸に流入する人口は増え続けた。8代将軍吉宗の時代(1721年)の江戸の人口は、町方約50万人・武家方約50万人・寺社方約10万人の約110万人。同じ時期のロンドンの人口は約70万人、パリ約50万人、ウィーン約25万人。既に江戸は世界屈指の大都市だった。
何故、かくも江戸には多くの民が集ったのか。
「大型商業施設」が人を集い、賑わいを盛り上げるのは時の常。江戸時代の商業施設の代表格は、呉服店の「白木屋」であり「越後屋」。
白木屋は1662年に、近江長浜の大村彦太郎が「華のお江戸で一旗」と上京。現在の日本橋2丁目に間口一間半(3m弱)の小間物屋を始めた。65年には日本橋1丁目に移転。同時に近隣の店を相次いで買収。店の拡大に準じ「羽二重地」「木綿羽二重地」等を扱うようになり、単なる小間物屋から呉服商に転じた。
越後屋は1673年に「三井財閥」の元祖となる三井家の三井高利が、現在の日本銀行本店の地・日本橋本石町に設立した。
白木屋は「商売上手」だった。次第に店を拡げていき越後屋と並ぶ呉服屋にのし上がった。巧みぶりは明治の時代に入り日本で初めてのエレベーターを設置(1911年)、関東大震災(1923年)で被災も1933年には全館を改修している点に象徴的。1958年に東急百貨店と合併。1967年に東急百貨店日本橋店に改称。がその後、建物の老朽化↓不採算店整理↓売り上げ不振から1999年に閉店を余儀なくされ、336年の歴史に幕を下ろした。
人気の呉服店だった白木屋には、逸話も多い。1932年に火事が発生。呉服屋の顧客の女性客のいで立ちは和服。裾の広がりを抑えつつ飛び降りた何人かが死亡した、と報じられた。この火事が「白木屋離れの曲がり角」とする見方もある。が「顧客に死者」は偽り。鹿島茂が『白木屋ズロース伝説』の中で客の死者を「ゼロ」と断じ、こう言及している。「白木屋ならではの、都市伝説だった」と。
「日本橋」から数十メートル。中央通りと永代通りが交錯する日本橋交差点の角地にあった東急百貨店日本橋店はいま、「日本橋一丁目ビルディング」に生まれ変わっている。三井不動産、東京急行電鉄、東急不動産の3社が2000年1月に解体・新設を決め2004年3月30日にオープン。地上20階地下4階建てと、地下2階地上2階建てのオフィス・商業施設の複合ビル。日本橋エリアの新しいランドマークとなった。竣工当時から双方とも満室状態。テナントは内外の有名企業・有名店で占められている。1階から4階の商業施設「COREDO日本橋(コレド日本橋)」は、「CORE(核)」+「EDO(江戸)」をつなげた造語。「江戸時代の繁華街・日本橋は、いまも名だたる繁華街」という思いが込められている。
3.白木屋の栄枯盛衰といま
白木屋(日本橋東急百貨店)の経営悪化が表面化したのは1980年代半ばの頃からとされるが三井不動産は早々に先を見越し、動いた。「東急百貨店日本橋店」解体・跡地買収・再生に、である。
「世の森羅万象を映し出す鏡」の株式市場は疑問を呈した。三井不動産の株価は98年6月の初値1211円から、「日本橋東急百貨店危機説」「三井不動産跡地取得」が漏れ始めた10月には787円へ。そして三井不動産による跡地取得が公になった99年1月には715円まで下落している。「破綻した商業ビルの跡地を買い取り、再生できるのか」とする疑問の声が映された。が、いま言えることはただひとつ。株式市場の目すら曇らせた件の英断がなかったら、「日本橋は江戸、そして東京屈指の繁華街」として語り継がれていただろうか。
三越の前身の呉服店越後屋は前記の通り現日銀本店の所在地の日本橋本石町に設立された。その後、現在の日本橋三越本店(国の重要文化財)と通りを挟んだ真向かいに、そして現在地に店舗を移している。また1683年に、今の日本橋三越本店の地に両替商(現在の銀行)を開設している。この両替商が、いまの三井住友銀行につながる。
戦前戦後の日本経済の牽引役となった旧財閥に「三井財閥」がある。その名残が現在も代表的企業だった各社の集い、「二木(にもく)会」。日本橋一丁目ビルディングを開発した三井不動産、そして現三越(伊勢丹ホールディングス)も二木会の主要メンバーである。
4.「百貨店の王」目指した三越
話を三越に戻す。「越後屋」の屋号が「三越呉服店」となったのは1904年。創業者・三井高利の「三井」と「越後屋」の最初の各一文字を取った。この年に、「デパートメント・ストア宣言」をしている。宣言と同時に、本邦初のエスカレーターを導入。その後「総合百貨店」化を図る中で三越の社名に変更されている。
三越が「デパートメント・ストア宣言」をしたのち百貨店としての礎を築いたとされるのが、三井銀行本店副支配人から転じた、支配人の日比翁助(ひびおうすけ)。日比は百貨店設立の準備のために、欧米の視察に頻繁に出向いた。三越の象徴的な存在となっている、本店入り口の「2頭のライオン像」をご存知かと思う。このライオン像も日比の視察の結果であり、「強い思いの丈」だった。
ロンドンを訪れた際、トランファルガー広場にある4頭のライオン像に惹かれた。我が子に「雷音」と名付けるほどライオンが好きな御仁。日比は目にしたライオン像をモデルに、英国の彫刻家、メリフィールド・バルトンに制作を依頼。3年の歳月を要し1914年に完成、設置された。日比の意図するところは「百獣の王ならぬ百貨店の王者になる」だった。
江戸時代の日本橋は、「ふる雪の白きを見せぬ日本橋」という川柳が読まれている。日本橋の繁盛ぶりを伝えるおつな歌である。
現在の日本「橋」が花崗岩製の二重アーチ橋に架け替えられたのは1911年。「特長」多々。が、記者が気に入っているのは「麒麟像」。羽がついている。日本橋をこよなく愛する作者の「ここを起点に日本に、世界に飛び立つぞ」という思いが感じられる。
江戸そして東京屈指の繁華街「日本橋」には多々の歴史・逸話が積み重ねられている。(編集部)
食通を唸らせる街日本橋
直木賞作家で「鬼平犯科帳」など、江戸を舞台にした時代劇作家の故池波正太郎は「大の食通」。随筆に「日本橋の食」も登場する。
日本橋浜町の「浜町藪そば」。「明治座で自分の作品が上演されるときには『さあ、浜町の藪へ行けるぞ』と、それが一つの楽しみになる」(東京のうまいもの)。日本橋室町三越前の天婦羅屋「はやし」。「この店には、油の匂いがしない。よほどによい油を、しかも惜しみなく使っているからだろう。腹いっぱいに食べても、いささかももたれない」(同)。日本橋1丁目の「たいめいけん」。「この店の洋食は、ワインなどではなく、日本酒でやるのが、私にはよい。上等のトンロースを薄めに切ってもらい、こんがりと揚がったカツレツの旨さ。神経を使った焼き上げのポークソテーの舌ざわり。ベーコンの厚切りをのせたビーフステーキも日本酒と御飯に似合う」(むかしの味)。
江戸を愛し、日本橋を愛した文豪に倣い「日本橋食べ歩きツアー」も一興ではないだろうか。